日差しも春めいてきて、コートを着ているとちょっと暑いなと感じる日が増えてきた今日この頃。アレルギー体質で鼻は少しムズムズしています。
そんな春。去年のちょうど今頃、母が余命宣告を受けました。
このことについては、ようやく少し書くことができそうかな、と思い少し書いてみることにしました。すみません、長文です…。
悲しさに溢れた季節だったけど、去年も桜はやっぱり綺麗だった。
実際私も母が余命宣告を受けたと聞いてから、パソコンに向かって「余命宣告 当てにならない」「余命宣告 治った」「余命宣告 嘘」などと検索したのです。
パソコンに向かって答えを求めるものではないとわかっていても、どうしていいのかもわからず、なにか答えが欲しかった。毎日、寝て起きたら夢だったらいいのにと思った。
思い出すと、どうしても辛いことです。ずっと、この辺りのことは思い出さないようにしていたのも事実。
最初は余命1年と聞いたので、もしそれが本当だったら、まだ今年も一緒にいられたはず。ですが、実際にはわずか1ヶ月で旅立ってしまいました。
だから、余命宣告1年は嘘でしたね。
余命宣告を聞いた日のこと。
当時私は実家を離れて生活していたので、父の電話で知ることになります。父から電話がかかってくることなんて、まずそんなになかったことなので、ちょっと嫌な予感はしました。ちょうど休日で夫と出かけて外出先だったのですが、嫌な予感は当たってしまった。(祖父もあまり体調が良くない状態だったので、最初祖父のことかなと思った)
「母さんがな、余命1年…」
母はすでに抗がん剤治療のために入院はしていて、ちょっと副作用が長引いて退院できないという日々が続いていたのですが、「低悪性度の悪性リンパ腫で、そこまで深刻なことはない、うまく治療していけば大丈夫」と言われていました。
「退院したら玉川温泉で湯治しに行こう」と話していたので、私もいつまとまった休みを取ろうかとも考えていたくらい。
なので、まさかそんなに深刻だったとは、誰も思っておらず、ただただ現実を受け入れられない、母がいなくなるなんて信じられない、信じたくないという思いでいっぱいでした。
電話の先で父も泣いていたし、私も外だったけど涙が止まらず、主人に説明しようとしても「お母さんが…」しか言えず、すぐに家に帰ることに。
帰って、夫に説明をしたあと、夫が言ってくれた一言は「すぐに引っ越そう」
この一言がどれだけ私を救ってくれたか、本当に感謝しきれません。夫がそう決心してくれたので、私もすぐに仕事を辞めることにしました。1年間は母のそばで看病に専念することに決めたのです。
そして、その日はとにかく1日中泣きました。ベッドの中でもお風呂に入っても何をしていても勝手に泣けてくる。泣いても仕方ない、今できることをしようと思っても涙が止まらないんです。こんなに泣いたのは生まれて初めてのことでした。
私はヨガのインストラクターで次の日もレッスンがありました。本当に申し訳ないですが、顔も目もパンパンに腫れてしまい「どうしたの?」と心配されてしまいました。
ただ、レッスンの最中は完全に「今」に集中するので、悲しみがやってくることはなかった。辛かったけど、この自分の仕事にも助けられました。
余命宣告を受けてから決めたこと。
1.仕事を辞めて、引っ越すという決断。
私はいくつかの職場(ヨガスタジオ)と契約して働くというスタイルだったので、何度か同じ説明をして、翌月末には辞めることになりました。こういう説明を何度もするというのは正直辛かったですね。
淡々と話していても、スタッフの方に感情がうつって泣かせてしまった方もいて、そうすると私もまた泣けてくる。その1ヶ月前に決まったばかりの仕事もあったので、入ったばかりで抜けるというのも本当に申し訳なかったです。
後任のインストラクターをすぐに見つけなければならなかったのですが、スタッフの中には「後のことはこちらに任せて、すぐに帰ってあげてください」と言ってくれた方もいて、本当に素晴らしい職場でした。忙しいのに、代行を引き受けてくれた方、後任になってくれた方。本当に助かりました。
当時、主人もフリーランスで場所を問わない仕事だったので、すぐに引っ越すという選択ができました。この選択については、母は残念ながら亡くなってしまいましたが、二人とも後悔はしていません。(主人も引っ越してからもフリーで仕事していましたが、また新しい仕事に取り組むことになり、今は少しの期間単身赴任です)
最終的には翌月末に母が亡くなり、最終クラスに行くことができず、スタッフの方だけでなくスタジオの会員さんたちに挨拶もできぬまま辞めてしまいました。
周りの方にたくさん迷惑をかけたのですが、後任になってくれた方やスタッフの方に恵まれたこと、ありがたく思います。
辞めるまでの間に、物件を探し、引っ越しの準備をしていたのですが、そのときまだ母には余命宣告を伝えていませんでした。ですが、私がこうやって急に引っ越してくるとなり、何かは感じていたと思います。
2.家族で協力すること。
仕事がある父や弟、まだ東京にいる私の代わりに、叔母(母の姉)がかなり協力してくれました。毎日通ってくれましたし、洗濯なども引き受けてくれました。それまで、叔母さんと蜜に連絡を取るということはそんなになかったですが、それ以来は、毎日連絡を取るように。
父や弟とも連絡を取り合い、協力しました。できる人ができることをする。叔母さんと母も仲が良い姉妹だったので、その分みんな辛かったですが、協力し合える人がいるっていうことは、それだけで励みになりました。
母が亡くなった後も、叔母さんはずっと気にかけてくれていて、月に1度は食事に誘ってくれます。月に何度も東京と関西を行ったり来たりしたので、家のことや引越しの準備はほぼ主人に任せっきりになりました。(ソファやオーディオなど断捨離もかなりしてくれた)
正直かなり交通費もかかりました。ですが、経済的なことに関しては気にしなくていいと言ってくれたのもありがたかった。精神的に一番支えてくれたのも主人です。
3.母の前では泣かない、普段通りに。
それから一人になるととにかく毎日泣いてしまっていたのですが、母の前では絶対に泣かないと決めました。いつも通りにすること。余命宣告され、良くない状況だったとはいえ、母はまだ喋ったり、笑ったりできる状態でした。
食事も最初の頃は、摂れる状態。おしゃべりしながら、ご飯を食べて、テレビのくだらない話題に笑って、時々足のマッサージをして。この瞬間は本当に幸せだった。これから来る不安や悲しみなんかまったくなくてただ幸せな瞬間だった。
幸い、母の前で泣きそうになることはほとんどありませんでした。最後にかなり痛がりながら、それでも医療用麻薬を拒否する姿を見たときは、泣きそうになり、堪えるのが辛かった。
医療用麻薬を使うと意識がほとんどなくなってしまうことの説明は、母もお医者さんから受けていて、母はそれを避けたがっていました。痛がる姿はとても見ていられず、この時が一番辛かったです。
4.ブログを普段通りに続けること。
1月にブログを始め、3月にそういう状態になったので、一時は書けないかも、休もうかとも思いました。ですが、最後は、母にもブログをしていることを伝えていたので、こうやって普段の毎日を書くことは、母も少し楽しみにしていた一つ。
普段通りに書くことに決めました。私が何かを続けている姿は少し励みになったのかな。そして、何より、私自身が普通の出来事をこうやってブログに書いている間、悲しみはそこにありませんでした。
書くことが自分自身の精神の安定にもなっていたのです。そう思うと、このブログを始めたのも母に言われた言葉が最初のきっかけです。私が、とても弱く泣き虫なことを知っている母は、私を励ます手段として「書くこと」を与えてくれたようにも思います。
直接、母から「書きなさい」とは言われていないけど、母自身も生涯、書くことによっていろんな気持ちを整理してきたんだと、亡くなった後に母が残した日記や書物を見て思いました。
このブログをずっと続けるのか、どんな形になるかはわかりませんが、私もこれからずっと何かしら文章を書いていきたいなと思っています。
そして、実際にブログを毎日普通に更新することって、ものすごく力になると実感しました。実際母が亡くなった後も、少しだけブログはお休みしましたが、私は普通にブログを続けることにしました。
母が読みたい事は、私が悲しんで落ち込んでいる姿ではなくって、普段通りの日常だと思ったから。意識がなくなった時も、この世からいなくなっても、今でも微笑んで読んでくれている気がするんですね。
5.毎日、いいなと思った風景を母にラインで送ること。
もう、外に出歩いたりできない状態で、病室には生花も禁止でした。散歩や花が大好きだった母なので、毎日いろんな花や空の写真を送りました。この頃の私の写真フォルダは花や空でいっぱいです。
そしてそのことは、私自身にも小さな幸せをたくさん運んでくれました。道端に咲く花だったり、空だったり。何も特別なことがなくても、毎日がいいなあと思わせてくれた。
もちろん一番喜んだのは、実家の猫の写真ですね。会えなかったのが本当に寂しかったようで、絵がかける時期はずっと猫の絵を描いていましたし、病室に写真もたくさん飾っていました。
最後に会わせてあげたかった。(このことについては、びっくりしたのですが、もう意識がなくなってしまった後ですが、お医者さんが猫を連れてきていいよと言ってくれました。個室だったのもあるかもしれませんが、その気持ちは母に伝わったと思います。実際はもう母も意識がなくなってしまった後だったのと、うちの猫が暴れて迷惑かける恐れもあったので連れて行きませんでした)
母とはラインでやりとりをしていたのですが、役立ったのが「既読」機能。いろいろ言われていますが、この時は返事がなくても読んでくれたと分かれば、それで嬉しかった。
しんどい時はなかなか「既読」にもならなかったので、読めたということはまだ携帯を見る元気があるということ。それだけで十分でした。
逆にやめたこと
この5つが、余命宣告を聞いた後に、私が決めたこと。
とにかく前向きに、1日1日を大事に生きること。ただ、どうしてもできなくなってしまったこともあります。
この出来事も、仕事で関わる人たちには状況をすべてお話しましたが、プライベートな友人などにはあまり話すことができなかった。
リアルな友人と繋がっていたFacebookやInstagramはそれ以来どうしても開かなくなってしまいました。でも、その時はそれでよかったと思います。
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そして、今。それぞれが前を向いて歩いていく。
余命宣告からたった1ヶ月で逝ってしまい、あれから1年。
思い出すとまだまだ辛く、涙もこぼれます。ですが、家族それぞれが少しづつ前を向いて歩いています。ぶつかった時もあったけど、こういう時があって、また自分にとって何が大切なのかを見極めて考えて。
最後の最後まで、色んなことを教えて気づかせてくれた母。ただただ、ありがとうの言葉しかありません。
先日、同じくお母様を亡くされた方とお話しする機会がありました。その方は、お母様が亡くなったのが自分の責任だと思ってしまい2〜3年鬱状態になったそう。
ですが、ある日ストンとお母さんが心に入った瞬間があったんだとか。その瞬間から、その方は鬱状態から抜けてとても強くなれた、と。
私はまだストンとは入ってきていないけど、いつも見守っていてくれる気は確かにしていますし、ブログは毎日チェックしているんじゃないかな。
そして、ヨガという生き方を知っていて本当に良かったと思いました。
1年あるんだから、母のそばで看病をすると決めたこと、その為に仕事を辞めて引っ越すこと。それをすぐに決断できたのも、今一番大事なことに集中する、その為に手放せるものは潔く手放す。そういうこともヨガが教えてくれていたのかもしれません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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