私はフェイスブックなどのSNS、本名でのアカウントを持っています。繋がっているのは、リアルな友達や仕事関係の人たち。
引っ越したり、職場が変わったりしても、フェイスブックやインスタグラムで繋がっていれば、いつでも状況がわかるしとても便利。そう思って、私も利用していました。
最初は近くのほんのわずかな友人たちだけと繋がっていたはずなのに、いつの間にか、仕事先だったり、1回会っただけの人だったり、幅がどんどん広がってしまっていました。
開けなくなったアカウント。
それがある時をきっかけに、まったく開けなくなってしまいました。「SNS疲れ」とはちょっと違うのかもしれませんが、いや、そうなのかな。
それは、母の余命を宣告されてから。今まで生きてきた中でいちばん辛い瞬間でした。
その状況で自然とSNSを開くことは減ったのですが、つい習慣で見る友人たちの投稿。
素直に「いいね!」と思えない。もうそこは、私には眩しすぎた。私の心はすさんでいくのです。「ああ、いいね!と思えない、自分はなんて嫌なやつなんだ」と自己嫌悪に陥る。
最悪のループに陥る。これ以上、心が乱れるのを避けたいと、そっと、開くのを辞めました。とくに「辞めます」などのなど宣言もせず、アカウントも消さずにただiPhoneのアプリを削除した。見たいなと思う時がくればまたパソコンからでも見ればいいや、と。
そう思うと案外パソコンからは開かないことに気づきました。アプリって便利だけど、そういう依存性もあるんだな、と。
リアルのフェイスブックからもインスタからもいなくなったことで心配して連絡をくれた子もいました。
正直に理由を話し、理解してくれました。
母親が亡くなった後は、街中で自分と同い年くらいの人が赤ちゃんを連れて、楽しそうに母親と歩いているのを見る。正直その姿が一番辛かった。自分ができなかったことが悲しかった。目を背けたかった。用もなく、そういう場所へ出向くのは辞めました。
心が落ち着いた。
しばらくそういう場所から離れてみて、家と近所と、時々外に仕事にでるという。その繰り返し。幸いその頃は家でできる仕事があったこともあり、それにも随分と助けられていました。
ブログを書いていたこともそう。離れても、生活に支障がでることはなかったし、何よりも自分自身の心がとても穏やかになった。静かに。なーんだ、そんな簡単なことだったんだ、と。
そこからいなくなっても、直接連絡をくれる子はくれたし、会うたいと思う人には会うこともできた。私にはそれで十分だって思えた。
そして、今よく遊んだりする友人自体はSNSやっていない子も多い。カナダの友人もSNSを一切していないから直接ラインするくらい。
大勢の中に混じっていつも情報を追いかけて、なんとなく仕事のつながりのためには必要かなって思ってはいたけれど、別にそういうわけでもない。
ただそういう思いに囚われていただけ。
SNSの新しい距離感。
SNSで繋がらなくても、繋がる子とは繋がるし、直接連絡取れば良いって思っています。
今ブログ用に、ツイッターとInstagramのアカウントを持っていますが、今のところそれに消耗してしまうということはないです。通知はオフにする、気まぐれに開いては、追いかけ続けないというマイペースなルールで、心地のいい距離感を保てているようです。
情報の海。とても便利なことで、私もインターネットというツールがあったからこそ、ブログで文章を書くことができたので、とても感謝しているし、それを仕事に活用している部分もある。
でも、それに溺れてしまわないように。
上手に立ち泳ぎくらいで時々平泳ぎなんかして、ぷかぷかと浮かんで入られたらいいなと思う。乗りこなさなくても別にいいのかな。
そして、バランス取るために瞑想はとても有効。
そうそう、上のサンキャッチャーですが、見る角度をちょっと変えるだけでこんなに色が変わります。
そうなんですよね、ちょっとの角度を変えるだけで。そもそもは色のない透明なもの。自分で何色にでも見る事ができる。