「幸せ」「気持ちいい」「豊か」「嬉しい」「楽しい」こういう感情は良いもの。
「恐れ」「憎しみ」「怒り」「悲しみ」「寂しさ」こういう感情は悪いもの。
そういう風に思って、良い感情はたくさん味わいたい。悪い感情は味わいたくない。なんなら悪い感情は見たくない、捨ててしまいたい、そう思っていました。
感情に良い悪いはない。
ヨガを練習していく中で、学んだことの一つが、「感情に良い悪いはない、執着しない」ということ。
私が普段行っているアシュタンガヨガは、すべてのポーズの順番が決まっていて、呼吸の数も決まっています。そうなってくると、出てくるのが、「苦手なポーズ」「体が痛くてやりたくない」「このポーズは気持ち良いからもっと長くしていたい」などという心の動き。
その心の動きを、アシュタンガヨガというメソッドに気づかされました。
どのポーズも同じように5呼吸。気持ち良いからもっと味わいたくても5呼吸、苦手でしんどいからといっても5呼吸。
決まっているのに、それがついつい、自分で練習していくと、「これは気持ちいいからもうちょっと味わおう」「これはしんどいからこのくらいで良いや」となってくる。
すべてはやってきて、そして去っていくもの。ポーズも感情も同じ。やってきたその瞬間を徹底的に味わうというのがヨガ。
ネガティブと呼ばれる感情。
だったら、ネガティブと称して、嫌な感情と名付けていいる感情も味わうもの。徹底的に味わうもの。
ヨガの効果の中でも書きましたが、ヨガをしていても、憎いこと、悲しいこと、怖いこと、本当に色々やってきます。ヨガをして変われるのは、その受け取り方だけ。
感情に飲み込まれるのでもなく、感情に蓋をして拒否して、なかったことにするのでもなく、徹底的に味わうこと。
去年、母を亡くすという出来事で、私は徹底的に悲しみにくれました。それでもまだ悲しみはやってくる。でも悲しいことを悪いことにせず、ただただ悲しんでいると、いつしか私の中かで、母の死も悲しみもネガティブなことではなくなっていることに気づきました。
これは、悲しみという感情をただそのまま味わった結果なのかもしれない。
憎しみや恐れと向き合うという練習。
同じように、憎しみや恐れや痛みとも向き合いたいと思っているけれど、まだなかなか難しく実践中です。そういう自分を見たくないという思いがある。
ただ最近は、恐れ、憎しみ、痛みがやってきても、それが私の全てではない、とは思えるようになった。
多分、これは小さい頃からの癖なのですが、「憎しみ」とか「傷ついて辛い」「怒り」などの感情は、「良くないこと、悪いこと」として味わう前に蓋をして見ないものにしちゃったんですね。逃げる癖がついた。
その結果、こじらせたまま、その影にずっと縛られています。
憎しみ、怒りの感情は、扱いがまたちょっと難しく、それが自分を傷つけた人に向かうと、復讐という形になって、また新たな憎しみを犯してしまう。
ヨガの教え「ヤマ・ニヤマ」の中の「アヒンサ(非暴力)「タパス(苦行・努力)」という項目。憎しみや恐れと向き合っていくことは、これを一緒に練習していくことなんだな、と最近感じています。
▼ 【ヨガの八支則】シンプル・ミニマムに暮らすためのヨガの教え。
このあたりは、まだ私も消化できていないので、うまく書けませんが、また、少しづつわかったら書いてみたいと思います。
「ヨガ」にまつわる話。