▼ヨガと暮らしのエッセイ

祈りが瞑想につながる。【イーシュワラプラニダーナへのステップ】

パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」でまとめられているヨガの八支則。その中のニヤマのひとつ「イーシュワラプラニダーナ」。

私はずっとこの理解ができずにいた。ヨガの本などを読んでいても「神への献身・理解」など、とても抽象的な言葉で描かれていることが多い。

そんな私が、最近少しずつではあるものの「イーシュワラプラニダーナ」とはこういうことなのかな?ということを感じ始めた。

※ 今日は学んでいるヨガの勉強から、ちょっと真面目に自分なりに考えてみた事です。少し言葉などが特殊です。ヨガに興味のある方はどうぞ。

ガネーシャ

瞑想の二つの種類

今ヨーガを学んでいる中で、瞑想には2つあると教わった。

一つは「熟考の瞑想」もう一つは「祈りの瞑想」

私はどうも「祈り」と「瞑想」も繋がらなかったのだが、最近それも少しわかってきた気がする。繋がらなかったわけは、多分「祈り」を「お願い」と勘違いしていたからかもしれない。

「祈り」を「お願い」と勘違いしていた理由

日本にはたくさんの神社やお寺など「祈れる場所」がある。

お正月に初詣に出かけ「今年1年が良い年でありますように」とお願いし、受験や就職の時には「どうか受かりますように」「仕事がうまくいきますように」とお願いする。

家族が病気になれば「どうか健康になりますように」、妊娠すれば「安産で無事に産まれますように」。

キリがないけど、とにかくたくさん神様仏様に「お願い事」をする。お願い事をするために神社やお寺に行くと言っても過言ではない。もちろんそれが悪いわけではないし、その役割も果たしている。

それで少しは心の平安を得ることもできるし、神社仏閣を訪れ「お願い事をする」というのはそういう目に見えない事をどこかでは皆知っているということだとも思う。

ただ、「祈り=お願い」というイメージが強くて「祈り=瞑想」という繋がりが持てなかった。

祈りの本来の姿

でも本当の「祈り」って、とても簡単な言葉で言うと「感謝」なのだと思った。「畏敬の念」とも言えるかもしれない。

母が亡くなってから、祈りのスペースをうちのリビングにも作ったのだけど、毎日手をあわせるうちにだんだん自然に「当たり前のことなんてない」と思うようになった。(アーサナだけでなくて、ヨーガをもっとちゃんと知りたいと思ったのもやっぱりこれがきっかけです)

母が余命宣告をされるなんて、夢にも思っていなかった。「母が元気でいるのが当たり前」だと思っていたことが覆された。

心臓を動かすにしろ、呼吸にしろ、無意識にでもできているのも、当たり前だと思ってしまうけど、そうじゃない。

他にも、毎日暮らしていく中で物を食べたり、電気が必要だったり、様々なものが今すべて与えられている。それも当たり前のような顔で暮らしているけど、そうじゃない。

目には見えない部分でたくさんの出来事が絡み合って、起こっている。

それらを含め、宇宙で起こりうる全ての現象のことをサンスクリット語で「イーシュワラ」と呼ぶ。

たくさんの力に支えられ、自分が生かされていることへの客観的な理解が「イーシュワラ」への理解へとつながる。それは信じるものではなくて、ただ理解すること。

その理解が生まれると、自然に畏れおおく敬う気持ちにもなる。感謝につながる。

サンスクリット語で「ナマハ」という言葉があって、「敬意を払い認識する」という意味だと私は捉えているけど、まさしく祈りは「ナマハ」。

とてもいい言葉だなと思う。ナマステーという挨拶の言葉もありますね。それもここから。

「イーシュワラ・プラニダーナ」と「祈り」

祈りは、生かされている自分に気づくということから始まる。

「イーシュワラ・プラニダーナ」とはその祈りの原理の理解があってこそ深まるのだと思った。生かされていることに気づいて、貢献する生き方

瞑想を習慣にしよう、深めよう、と思っていたけれど、まず私に必要なのは一つ目の「祈りの瞑想」であるようです。

私はすぐ何かをしたら「私が〇〇してあげた!」とアピールしたくなるけど、今与えられているものは何もそんなアピールをしてこない。

ただただ、ある。

だけど、それをすぐ忘れてまた当たり前の顔して暮らしている。それはとても平和な証拠でもある。平和だから忘れている。なのに、ちょっとした足りないことにはすぐに文句を言う。

毎日祈りを習慣にするのは、そういうことを思い出すため。

その祈りがなぜ瞑想になるのか、というところは、またもう少し理解を深めてからまとめていきたいと思います。

今の私の理解はここまで。

こちらもどうぞ:)