四十九日を過ぎ、少しづつ母の物を整理しています。断捨離に慣れてきたとは言え、まだまだ辛い作業。
一気に片付ける方が本当はいいのかもしれませんが、「母の物が家から全て無くなる」というのは一緒に住んでいた父にとってはものすごく辛いようで(ただでさえ、かなり落ち込んでいる、でも整理もしなきゃ、と思っている。)、ゴミの日の度に少しづつ整理しています。
実家で誰もいなくなるわけではないので、まだそんなに急ぐ必要もないかなと思っています。なので少しづつ、実家の片付け・掃除も兼ねて行っています。
遺品を整理して思ったこと。
そして、ある日。母が使っていた日用品やもう古いものなど一部を処分しました。そして、たまたま見てしまいました。ゴミ収集車がやってきて、あまりにもあっけなくバラバラになり物が吸い込まれていく姿を。
それを見たとき、なんとも言えない気持ちになりました。母の思い出のもの、それが粉々になっていく姿。辛いような悲しいような…。
故人が本当に大切にしていたもの。
でもその時ふと思ったのです。「母が本当に大事にしていたものってなんだろう?」と。
そして気付きました。母は家族を大事にしていたし、物よりも何よりも、私を大切に育ててくれたこと。母が遺してくれた最大のものは自分自身だと。その気持ちは物を捨てても消えない、とゴミ収集車に吸い込まれる物を見ていて思ったのです。
「自分を大切にして生きること」「母の大事にしていた気持ちを受け継いで生きること」「家族を大切に思うこと」が供養になると気付きました。
物=思い出、にしない。
「物」というのはある意味、思い出を引き起こす為には手軽なものです。それを見れば思い出す、思い出のきっかけになります。
でも、物自体が思い出ではありません。大事なのは、物そのものよりも「思い」なのです。そして、その「物」がなければ思い出せないという「思い出」は結局それくらいのことなのかな、と。大事な思い出や思いは物がなくても、私の心の中にずっと残っています。
そう考えると、遺品整理は故人からいろんな思いを受け継いでいく作業なのかと思います。私はできるだけ物を遺さずに去りたいですが、遺品整理も母が遺した物を通して、自分を見ていく作業、結局自分のための断捨離なのだなと。
断捨離という言葉ばかりが先走っていて、断捨離は物を捨てること、のように思われているようにも感じますが、その物を通して自分を見ていく作業。とても辛い作業の時もありますが、そうして初めて物と区切りがつくのだと思います。
書いて公開するか、少し迷いましたが、今の自分の気持ちとして残しておきます。遺品の整理はやりながら色々と思うことが出てくるので、またその都度書いていきたいと思います。