今回はタイトルにもあるようにちょっと暗いかもしれません。
母が亡くなったあと、実は次いで祖父も亡くしました。(祖父はもう90を超えていましたが)
そんなことが続いたこともあり、今年の春は「死」とか「あの世」について考えざるおえない状況でした。
何かあるたびに「身内に不幸があり」と説明している自分。でもその度に感じる違和感。
死は不幸なの?私は不幸なの?と。どうもしっくりこなかったのです。
そうして私が死について考えて、悲しんでいるときにも、友人たちから「赤ちゃんが産まれた」「妊娠した」という 報告も数件受けました。命がなくなり、命が産まれる。
生と死について考えた。
赤ちゃんが産まれた「生」と大事な人が亡くなった「死」について考えていたら、これって本当に隣り合わせなんだな、と。
なんとなくそんなことを思っていた時に、同じく大切な人を亡くした友人がこの本を薦めてくれました。
「今はまだ最後まで読めないかもしれないけど、よかったら読んでみて」と。
ヒアアフターとは、「あの世」の意味らしい。
実は母が闘病中の時にもよしもとばななさんのある本を読んでいたのですが、途中で読めなくなってしまったことがありました。
なので、これはどうかな、思ったのですが、ちゃんと最後まで読めました。
死は悲しいことだけど、不幸なことではない。
そして、この本を読んだあとに私の中で、もやもやとしたものが確信に変わりました。大切な人を亡くし、死はひとつの別れで悲しいことだけど、不幸ではないってこと。
もし「あの世」と「この世」があるのなら亡くなった人はあの世へ旅立っていく。あの世は苦しみも痛みもない世界。
そういうところに母や祖父がいくのなら、私の気持ちはちょっと救われる。
そして、赤ちゃんが生まれることを、「輪廻転生」であの世からこの世へまた戻ってくると考えてみる。
もしかしたらその時に、あの世ではこの世に行く魂に対しての別れ、「悲しみ」があるのかもしれない。こちらでは「おめでとう!」と喜ぶのだけれど。
そして、亡くなった人に対してもこちらでは悲しむけれど、あの世では「おめでとう!おかえり!」とか言われているのかもしれない。
だから、喜びも悲しみも隣り合わせ。
そして、ふいにこの曲を歌詞を思い出しました。THE BLUE HERB「智慧の輪」
死者と赤ん坊がすれ違う。
死者が言う「どうか良い人生を」
赤ん坊が答える「どうか良い来世を」
あまり、うまく書けませんが、こういう考えは現実的ではない、と言われるかもしれません。
でも、仏教は何のためにあるのかというと、「遺された人たちが明るく楽しく生きるための教えのひとつ」とお坊さんも教えてくれました。
だったら、今わたしはそう考えていたいのです。
そして、この小説の中にすてきな一文が。
今という時間しかもってないけど、なんて豊かだろう。
生きているのなら、やっぱり毎日を丁寧に心地よく生きたいと思いました。
この世を修行、などと捉えることもありますが、私はそんなに苦行は選びたくないので…。笑。
母とはもう少し一緒に居たかったですし、まだまだ悲しくて涙が止まらない日もあります。
でもいつもどこかで繋がっているんだと、と少し心強くなれた気がします。
こちらもどうぞ:)