「やられたら やり返す 倍返しだ」
ドラマ見ていませんでしたが、この台詞だけは知ってます。
そして最近ネットでチラッと見かけた、あるお寺の標語が話題になっていました。
「やられても やり返さない 南無阿弥陀仏だ」
だったと思うのですが、ちょっと面白くてくすっと笑ってしまいました。
私も倍返しとは行かずとも、やられたら、やり返すことはしなくとも「怒り」や「憎しみ」という呪いをかけたりしてました。
その呪いは自分にかかるとも知らずに。
「やられたら、その人の幸せを願う」
なんて聞けば、なんて偽善な!そんなの無理でしょう!とも思いました。
どうかリラックスして幸せでありますように
でも、ヨガでいろんな仕組みを学んでいくうちに少しづつ理解してきたこと。
やってきた方にも、もしかしたらそれなりの理由があったのかもしれないし、何かこっちに非があったのもしれないし、事故的に単にタイミングが悪かっただけかもしれない。
ただ、確かなのは、何か理由があってやったとしたら、その理由をつきつめればその人が「幸せでない」という思いでやったことは確か。
例えば、最近多い煽り運転。
煽ってきた人の心情を想像してみると
「くそ!俺は早く帰りたかったのに隣から抜かしやがって。今日は仕事でも嫌なことがあってイライラしてたのに更にムカつく(幸せでない)」
または、逆に抜かされたことを煽られたと勘違いしていた可能性もある。
どちらにしろ本人がリラックスして幸せだったとしたら、「どうぞお先に」と余裕のある対応ができたはず。
そのことに本人が気づいていようがいまいが、だったら、どうかリラックスして幸せでありますようにと願うしかない。
もちろん、やられたことに対して全て泣き寝入りのように許すというわけではなく、適切な対応はした上です。
これは自分が「リラックスして幸せ」でないとすごく難しいこと。
世の中のニュースをみたら、とても許せそうにもない事件や事故がたくさん起こっています。
どうかどうか、加害者の方も被害者の方も幸せでありますようにと。
私ができることといえばそれくらいしかないけれど。
そして、人のことを祈る前に自分も。
私が幸せでありますようにと願うことは、利己的でもなく、とても大切なことだと今はわかります。
そして、こちらはヨガを学ぶ身として、南無阿弥陀仏をちょっともじって、
「やられても やり返さない シャーンティシャーンティシャーンティ〜♪」としておきます。