ヨガで暮らしと心を整える

こころとからだの平和について考えて、思い出したこと。

先日の「生と死について考えてみた話」に思っていた以上にコメントやメッセージをいただけて嬉しく思っています。書いてみて良かったです。ありがとうございます。

そして、それに引き続き、今日はずっと書きたかったことを書いてみようと思います。

ずっと書きたいなと思っていたのですが、うまく書けずになんとなく逃げるようにしていました。

アリアムギガンチューム 紫 丸い花

祭壇にお供えしてあった花。アリアムギガンチュームという花。

これを書こうと思うきっかけをくださったのが、「簡素な暮らし」を心掛けながらその中での気づきを綴っておられるUtsumi Akieさんのサイトのこちらの記事。

▼ こころとからだの平和(最終日) | Simple Life Journal

Akieさんの「こころとからだの平和の求め方」もとても参考になりますので是非。

これを読んで、私も「こころとからだの平和」を感じた瞬間のことについて書いてみようと思います。

こころとからだの平和を感じた瞬間のこと。

私の母は余命1年という宣告を受け、それからわずか1ヶ月ほどでに逝ってしまいました。

宣告を聞いた時、私は今までで一番の悲しみを経験しました。それを母に悟られないようにお見舞いに行くのですが、実はそのある時に私は「こころとからだの平和」を感じました。

お見舞いに行ったその日は、病室に母と私の二人きり。

だんだん意識もなくなりかけている母が、ちょっとうたた寝のような感じで眠っていた時。私は、オイルを使って母の足や手のマッサージをしていました。

その時、私は今まで感じたことのない平和で幸福な状況を経験しました。母の命がもう長くない、私の心は悲しみにあふれている、病院という私があまり好きではない場所。

そんな状況だったのにも関わらず、私はただ「平和」で「幸福」だったのです。

本当に言葉にうまくできないのが悔しいのですが、「母」がそこにいて「私」もそこにいる。

それだけを感じて、「ああ、なんて平和で幸せなんだろう」と感じたのです。

何も変わることのない「私」

母の体はだんだん死に向かい、痛みや苦しみを感じていたかもしれません。

ですが、その体と心の奥にある、何も変わることのない「母」がその時確かに感じられたのです。

そして「私」も母を亡くす悲しみや苦しみに心は覆い尽くされていたはずなのですが、その奥にある、そういうことに左右されない、何も変わらない「私」も感じたのです。

何も変わらない「母」と「私」を感じられた時、本当に幸せで平和だと感じました。

Akieさんのいう「存在感のある空っぽの空間」というものがそれにあたるのかもしれませんし、それを「魂」と呼ぶのかもしれません。

あたたかい平和・幸福感

うまく説明することができずに本当にごめんなさい。

瞑想やヨガもその状態を目指していくもの。ですが、ヨガや瞑想中ではなく、「病院で、死に向かっている母と過ごす中で」感じられたことは、私にとって、とても貴重なことでした。

その時のことを思い出す時、私の中にあるのは「悲しみ」や「苦しみ」ではなく「あたたかい平和、幸福感」なのです。

それを感じたとき、私たちはどんな状況でさえ、「平和」「幸せ」を感じられるという意味も少しだけ分かった気がしました。

すでに私たちが「平和」で「幸せ」な存在であるということも。(ヨガでそういうことを学んではいたけれど、実際として感じられたことはなかった)

Akieさんの問いかけとはちょっと離れてしまいましたが、私にとって「こころとからだの平和」について考えてみました。

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