母の月命日でした。あっという間の1ヶ月。早いような長かったような。まだまだ気持ちの整理はできていません。
そして、いつも通り実家へ行き、帰ってからしばらくして、久々にいっぱいいっぱいになってパンクしてしまいました。
まだ事務的な手続きがたくさん残っているのと、実家と自宅の行き来と、主人と私の家族がうまくやってくれるように知らないうちに気を遣っていたり、まだ本格的には仕事は復帰してませんが、自分の仕事と。しなければならないと思うことで精神的に許容範囲を超えてしまっていました。
そして、泣いていました。
母がいなくて辛いこと、事務手続きが苦手でできなくて嫌だ、とか、毎日実家にご飯作りや家事にいくのも大変なのに感謝されない、とか、子供みたいに主人に言いたい事を言って泣いてしまいました。
そして、泣いてお風呂に入って、寝て(またふて寝のような)、朝目覚めて、ちょっとすっきりしたな、と感じながら、いつも通りヨガと瞑想しました。
全てはやらせてもらっていること
そしたらふと「やらせてもらっている」という言葉が浮かんできました。
今私が辛くなっているのは「やってあげている」「やらなきゃいけない」という思いからの行動だと気付きました。
ご飯を作ってあげている、私が作らなきゃいけない、手続きもやってあげている、やらなきゃいけない。私が私がー!キー!みたいな…。そりゃ疲れます。
そして疲れてくるとだんだん、「なんで私ばっかりがやらなきゃいけないのか。」「どうして私だけが辛い思いしなきゃいけないのか。」という被害者意識になってくる。妖怪「ナンデワタシダケ」がやってくるのです。
そしてパンクする。笑。
この思いが自分で自分の首を絞めていました。そして、なんて高慢になっていたんだ、と。
受けいれること。
「やらせてもらう」は結局受け入れることではないかなと思います。
そして、改めて母の偉大なところを感じました。こういう時、絶対母は「やってあげている」のような見返りを求めるようなことは一切なかった。母はいつも「受いれる」人だったのだなと。
今よく開く本から。
受いれる それをいやいやすると奴隷になる すすんでやるときは主人だー(受いれる|加島 祥造 より)
やってくるものを淡々飄々と受けいれてみる。今その時。そして、自分と自分の周りの人が少しでも楽に笑っていられるように、自分ができることをできる範囲で協力していくこと。
自分に無理はしないこと。気付けばとてもシンプル。
とても大きなヨガの練習をさせてもらってると感じればいいだけのこと。いろんな自分が見えてくるのを、ちょっと客観的にみて「はー!こんな自分もまだいた!」と面白がってみる。
それでいいじゃないか、と思えると少し楽になってきました。
今日もありがとうございました:)
ブログもこうやって書かせてもらえていて、読んでくださる方がいて本当にありがとうございます。
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