母が亡くなった後の自分の心の動きも記しておこうと思います。ヨガ・心という大きなテーマの中で自分の心を見つめるために記しておきます。
それぞれに違う悲しみの癒し方
母が亡くなってから、私はいくつか違和感を感じることがありました。
一つは父の態度。父は、母の意識がなくなり、お医者さまから「もしかすると今夜が…」と言われた時から、お葬式のことについて段取りしだしたりしました。しなければならないことだけど、まだ母は生きているのに、私は少し違和感を感じました。
そして、母が亡くなって葬儀が終わってからも、相続だとか、保険がどうとか、そんな手続き的なことばかりをしていました。手伝っていた私は「まだもう少したってからでいいのに、少しゆっくりしたい。」と。(すぐにしなければならないこともあるので、それはもちろん済ませた上で。)
他には、昔の写真を探しだして祭壇にたくさん飾ったり。(もちろんそれらを見ながら父も泣いていましたが。)私も最初、写真を見たり飾ったりすることは、良いなと思っていたのですが、数日たってくるうちに、だんだん疲れてしまいました。
あと、お参りに来てくれた母の友人などが「お母さんこんなところがあったわね」と思い出話をするときにもなぜかひっかかってくる私の心。
そして、見えてきた自分の心の動き。
「私はまだ母を思い出にしたくない。」ということ。私はまだ母の死を十分に受け入れられておらず、なのに昔の写真をみて思い出を語られても、なんだかその場から逃げ出したくなるのです。
多分、父は何かをしていないときっと心が押しつぶされてしまうのでしょう。だから、葬儀や相続など事務的なことをやったり、楽しかった時の思い出をたくさん振り返ることで、心を落ち着かせていたのでしょう。事実、そう言っていました。
でも私は多分違う。
頭を働かせるのはもう少し先にしたいし、思い出を語るのももう少し先にしたい。今は普通の生活をして、そして、少しづつ、母がいないという事実を受け入れていきたい。
だから、少しぼーっとする時間も私は必要なのです。それとは反対に、父はぼーっとしていると鬱にでもなってしまいそうだと言う。
違いを受け入れること
この違いを受け入れないと、喧嘩になってしまいます。母が亡くなったあとで、そんな喧嘩もしたくないし、私もそのことが少し理解できたので、上手に自分の気持ちを伝えていくことが今の大きなテーマかと思います。
悲しみの癒し方は人それぞれに違うのだな、ということを一つ学びました。
そして、葬儀の日に、お坊さんが言っていました。「仏教は、遺されたものたちがいかに明るく楽しく生きるかという教えてくれている。」と。
まだ時間はかかりそうですが、それぞれのやり方で明るく楽しく。泣いてもいいし、笑ってもいいし、怒ってもいい。そうやって今ある感情と向き合いながら、受け入れていくのかなと思います。
昨日、関西に帰ってきて久々に、よしもと新喜劇を見ました。パターンが決まっているのですが、やっぱり笑えるのです。そういう日常にあったことが今はとても愛おしく感じます。
最後までありがとうございました。書くことが私の悲しみの昇華であるのと、今の私の思いが、「こういう事例もあるよ」と誰かのためになればと思いここに記しておきます。
そうこう書いているうちに、父への理解もとても深まってきました。ありがたいことですね。